北海道 音威子府村
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【01470-0024】砂澤ビッキ ポストカードセット(12種セット)
◆◆音威子府で活動していた故・砂澤ビッキ氏の記憶を◆◆
音威子府村の筬島(おさしま)地区で木工彫刻活動を行っていた故・砂澤ビッキ氏。
その製作風景を捉えたオリジナルポストカードをお届けします。
「森と匠のむら」と呼ばれる音威子府村で、”匠”を象徴する
「エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア」(砂澤ビッキ記念館)
に展示している作品と、砂澤ビッキの写真を選出しています。
ビッキの世界を小さなポストカードでお伝えするのは難しいですが、
少しでもビッキの世界観を感じ、想像力を広げていただけるように、
敢えてモノクロに仕上げました。
(ビッキのスケッチはモノクロが多く、彫刻作品は暗い照明の中で展示されております。)
音威子府村まで行けない方にも、ビッキ本人とビッキ作品の魅力が伝わるポストカードです。
額に入れたり、ボードに複数枚貼って、お部屋のインテリアのアクセントに!
木と深く対峙しながら晩年まで作品を作り続けた砂澤ビッキ氏の写真を手に取ってみませんか?
【提供:音威子府村商工会】
■砂澤ビッキ略歴
1931年
父・砂澤市太郎、母・べラモンコロの子として旭川緑町15丁目に生まれる。
本名は恒雄(ひさお)。幼少からビッキ(カエル)の愛称で呼ばれる。
1953年
父・市太郎の死後、母の住む阿寒湖畔に滞在。その後、鎌倉に移住。
文学青年等のサークルに入り、篠澤龍彦、土方巽、白石かず子らと交友。
モダンアート協会展を中心に作品を発表。(1962年会員、1964年退会)。
1959年
旭川市に戻り、北海道アンデパンダン展の作家・五十嵐広三、菅原弘記、平間文子らとの交友が始まる。
1960年
「動物」をテーマに制作。
1964年
「TENTACLE」をテーマに制作。
1978年
個展会場で道北の音威子府高校校長・狩野剛と出会い、音威子府筬島に移り、
小学校の廃校をアトリエとする。
1980年
音威子府駅前にトーテムポール状の作品「オトイネップタワー」を建てる。
(後に老朽化のため撤去。2000年8月に現在のエコミュージアムおさしまセンター駐車場に設置。
2012年11月23日、永久保存するため切断し館内に保存公開)
1983年
カナダのブリティッシュ・コロンビア州に渡る。ハイダ族の彫刻家ビル・リードと交流。
1986年
札幌芸術の森野外美術館に高さ5.4mのクロエゾマツで制作した「四つの風」を設置。
1989年
1月「現代作家シリーズ’89 上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明展」(神奈川県立県民ホールギャラリー)
の会場にて、病を押して展示指導。
同展オープニングに出席後、1月25日、札幌愛育病院にて骨髄ガンのため逝去(享年57歳)。
提供:音威子府村商工会
昭和39年に創立。
農産物や加工食品を中心に販売。
音威子府村の商工業者の経営に関する相談と支援、経済振興を図るための諸活動を通し、
豊かで住みよい地域づくりを目的とした産業の推進と地域活性化のための事業を行っています。
カテゴリ |
雑貨・日用品
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切手・写真・はがき
>
はがき
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- 自治体での管理番号
- 4956200
音威子府村について
森とともに一人ひとりの匠が活躍する村
音威子府村は、北海道上川地方の北部に位置する道内で1番小さな村で、北海道の名の元となった「北加伊道」という名を、幕末の探検家である松浦武四郎が発想したといわれる「北海道命名の地」としても知られています。
村の総面積の8割が森林で、村の中央を日本で四番目に長い大河である天塩川が流れる、自然豊かな村です。
村の基幹産業は「農業」で、そばやフルーツトマト、ホワイトアスパラなどの野菜の作付や、乳用牛が飼育されています。
また、村立高校「北海道おといねっぷ美術工芸高校」は、美術や木工芸を学ぶことができる工芸科が設置され、全国各地から生徒が入学する学校で、村のまちづくりの中核にも位置付けられています。
かつては鉄道の街・国鉄の街とも呼ばれ、JR宗谷本線と旧・天北線が分岐する鉄道要衝地として発展してきた歴史があります。現在では「特急列車が停車する駅がある自治体で、日本で一番小さな村」で、いまもなお、自動車や人、モノが多く行き来する、交通の要衝地です。
北海道 音威子府村