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平成生まれの3.11 一人一人の復興の形 (菊地 颯明さん)

~あなたの想いがふるさと納税で応援になる~

平成生まれ ふるさとの事業継承者 菊地 颯明さん (宮城県気仙沼市) 両親の想いがこもった会社 想いが引き継ぐその日まで 平成生まれ 地域外から応援する 菊地 颯明さん (宮城県気仙沼市) 両親の想いがこもった会社 想いが引き継ぐその日まで

平成6年生まれ。建設会社に勤務しながら、家業をサポート。

震災当時の年齢:17歳/気仙沼高校2年生
部活(陸上部)を始める準備をしていた時に地震が起きました。学校の高台の上で自宅や父の仕事場が津波で流されていく光景を目の当たりにしました。当日は学校で一夜を過ごしましたが父母、弟とも、まったく連絡が取れなかったため、安否が心配で一睡もできませんでした。

現在:
現在、県外の建設会社に勤務。現場作業や進捗管理をしています。年に何度かの帰省時には両親ふたりだけで営んでいるフカヒレ加工の仕事を手伝っています。なかでもふるさと納税のお礼の品は、とても人気があるようなのでやりがいを感じています。

震災を経験し、進路は悔いのない選択を家族と一緒に

震災直後は避難所となっていた母校の体育館でひと月過ごし、その後仮設住宅に入りました。高校卒業後は進学しようと思っていましたが、いろいろ考え市外で就職することにしました。両親には進学するよう反対されましたが自分で出した結果なので後悔はしていません。

「今の責任を全うするように」と諭してくれた父

就職してから3年。ようやく両親の会社も再開したので、戻って両親の力になろうか悩みました。父には「こちらのことは考えなくていい。まずは今の責任を全うするよう。」諭されました。当時、私の勤務する会社は震災に伴い建設の高需要で私も心身フル回転でした。父の言葉を受けてからは今日まで自身のやるべきことに集中、邁進してきました。しかし反面、いつも両親の様子を心配していました。父は震災後、心労が重なり心臓を患い一ヶ月の間、ICUで生死をさまよいました。今も無理はできない体で母とふたりで働いています。今は、先々の事を考え、休みの時には必ず帰省し両親の仕事を手伝いながら、少しずつ仕事を覚えるようにしています。復興した、とはまだ言えないようですがそれでも日々、仕事があることに感謝しています。

ふるさと納税でいただいた思いを励みに

「ふるさと納税」は最近色々取りざたされていますが、本来の趣旨に沿った形で支援につながっているのであれば本当に良い制度だと思います。気仙沼市、そしてまた両親の会社も、ふるさと納税のおかげで本当に助かっています。ご寄付、ご支援をいただきました全国の皆様には感謝してもしきれない思いでいっぱいです。なかには何度も何度もリピートしてくださる方、年賀状をくださる方など。本当に頭が下がります。いただいた思いは大切にし、また励みにしながら頑張っていきます。ありがとうございました。

両親の想いのこもった会社を引き継ぎ、全国の皆様に変わらぬ味を

両親の会社は私が1歳の時に創業しました。それから23年。小さいながらも、その会社があって私を育ててくれました。震災後、その会社は消滅し収入は途絶えました。父は気仙沼市の臨時職員として火葬場に2年間従事しました。慣れない仕事、仮設住宅での生活。日増しに憔悴していく父が心配でした。それでも「いつかまた」と父の会社再開の熱意は変わっていませんでした。そんな想いを背負った両親が守り続けてきた会社です。追々自分がその想いを引き継いで全国の皆様に変わらぬ味をお届けしたいと思います。

(有)鼎陽 代表取締役 菊地純明さん(颯明さんのお父さん)

震災の黒い濁流津波に妻ともども巻き込まれました。紙一重で命は助かったものの、妻の行方が分からなくなりました。家族と再会できたのはそれから3日後のことでした。間もなくして、地域一帯は広大な火の海に包まれ2昼夜にわたって燃え続けました。自宅、会社どころかフカヒレの原料仕入先も含め、広域にすべてを燃え尽くしました。当時は仕事の再開など全く考えられる状況では無く、日々を生きていくことだけで精一杯でした。

震災後の不安の最中、救ってくれたのはふるさと納税

震災3年後、徐々にフカヒレ原料会社も再開していく中ようやくフカヒレの入手ができるようになりました。しかし、私は多額の負債を抱えたたまま、販路も失い先が見通せないような状況の中で、本当にやっていけるのか正直なところ不安でいっぱいでした。不安は的中し、初めの2年間は融資を追加せざるを得ない状態で、もう本当にお手上げかと思った時期もありました。しかし、そんな状況を救ってくれたのが「ふるさと納税」制度でした。初参加の年からたくさんのご寄付を頂きました。夫婦ともども久しく忘れていた忙しさ。連日連夜、会社に泊まり込んでの作業でしたがまったく苦ではありませんでした。むしろこの時ほど働けるありがたさ、喜びが身に染みたことはありません。全国の皆様には言葉では言い表せない思いでいっぱいです。本当にありがとうございます。その後も、2年、3年と今日まで変わらず沢山のご厚情をいただいています。今後においても、これまで同様商品づくりに真摯に謙虚に向き合い、皆様の期待以上に応えるべく邁進してまいります。

全国の皆さまのご支持を励みに、事業継承を

60歳を目の前に、心臓の持病を抱えながらの作業には正直なところ不安がありますが、まずもっての目標は「事業借金ゼロ」。自身の責任として清算、そのうえで事業継承を、と思っています。そのためにも一層の健康管理には気を遣うところです。これからも全国皆様のご支持を励みに一層の精進を重ねていく所存でおります。

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震災の被害

気仙沼市は宮城県北東部の太平洋岸にある人口64,000人の港町。東日本大震災では市内に建っていた家屋の40%、26,124棟が損壊し、16,459棟が全壊するなど甚大な被害を受けました。基幹産業である水産業も大きな被害を受けましたが、国内外から頂いた暖かい御支援と、港町の心意気により、震災の年の6月には魚市場を仮設復旧。連続記録更新が危ぶまれた「生鮮カツオ水揚げ日本一」を達成、平成30年で22年連続という記録を更新中です。 復興への取組により、一歩づつ元の姿に戻ろうとしている気仙沼ですが、一方でこの震災を風化させることなく、記憶と教訓を後世へ伝承することも必要であることから、被災した気仙沼向洋高校旧校舎を震災遺構として保存・公開する準備を進め、今年の3月10日、「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」をオープンします。 巨大な津波によって高さ8mの校舎3階にまで運ばれてきた被災車両、市内各所で撮影した被災状況写真など、「あの日の気仙沼」を体感することができます。

復興とふるさと納税

市の水産業の心臓部とも言える魚市場が被災し、沿岸部の水産加工場も大きな打撃を受け、従業員も自宅が流出するなど、事業継続が困難だと思われた事業者も多数ありましたが、多くの支援により加工場が復活し、閉ざされかけた販路も徐々に回復して軌道に乗ってきた平成27年4月、ふるさとチョイスの利用を開始。気仙沼の代名詞「フカヒレ」や水産加工品などを中心に、今では300を超えるお礼の品が登録されています。 市内の事業者は都市部の取引先がメインでしたが、「ふるさと納税のお礼の品としての出荷をきっかけに直接注文をしてくれる消費者と出会えた」や「従業員から商品ラインナップ拡充の提案が出るなど、復興の支えとなっている」との報告をいただいています。 >気仙沼市の使い道の詳細はこちら

復興から生まれたお礼の品

大きな地震や大雨など、自然災害が増加し、「備え」の必要性が叫ばれています。そのような状況の中でご紹介するのは、震災により工場が全壊という被害から復活を成し遂げ、昨年の市のお礼の品で、最も寄付者の方に選ばれた(株)ミヤカンの缶詰です。缶詰は災害時の備蓄品として非常に有用ですが、そもそも「美味しいこと」も重要です。 缶詰は、サバ・ツナ・イワシなど、地元気仙沼で水揚げされた原料を使用し、素材の旨味を活かした丁寧な製法が光り、品切れすることもある逸品です。 「災害への備え」と「美味しい」が両立する(株)ミヤカンの缶詰は気仙沼市のふるさと納税で! >気仙沼市のお礼の品の詳細はこちら

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