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日本経済の礎を築いた「山﨑覚次郎博士」の生家『松ヶ岡(旧山﨑家住宅)』の修理・保存へご協力を!(4)

カテゴリー:伝統・文化・歴史 

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寄付金額 130,000

13%

目標金額:1,000,000

達成率
13%
支援人数
4
終了まで
受付終了

静岡県掛川市(しずおかけん かけがわし)

寄付募集期間:2018年12月17日~2019年3月15日(89日間)

静岡県掛川市

プロジェクトオーナー

皆さんは「松ヶ岡(旧山﨑家住宅)」をご存知ですか。
松ヶ岡は、十王区にある江戸時代末期に建てられた掛川藩の御用商人山﨑家の住宅で、厳選された建築材料を使い、丁寧な加工が施されています。江戸時代の豪商の屋敷構をほぼ原型のままに残しており、明治天皇の行在所(あんざいしょ:天皇の旅行の際に設けられる仮の御所)という歴史上の出来事のあった場でもあることから、大きな建築史的な意義を持っている建物といえます。

平成22年頃、所有者が松ヶ岡を処分するという意向を示しました。しかし、市民から取り壊しを惜しむ声が上がり、平成24年12月、市が購入することになりました。翌年4月には市民による「松ヶ岡保存活用検討委員会」が立ち上がり、松ヶ岡の修復・復元に向けて検討を進め、平成26年度に最終報告書を提出しました。

こうした活動の実施にあたり検討委員会は「松ヶ岡プロジェクト推進委員会」に名称を改め、まずは松ヶ岡の修復と掛川銀行の復元へ向けた募金活動を開始することになりました。
松ヶ岡という素晴らしい財産を残し、子供たちに伝えていくため、皆様のご支援をお願いします。

■プロジェクト概要■

静岡県掛川市に残る「松ヶ岡」(旧山﨑家住宅)は、江戸時代末期に掛川藩の御用達を務めた豪商山﨑家が安政3年(1856年)に建築しました。

江戸時代の屋敷構えを良く残すと共に、明治以降の増改築による近代和風建築の格式高い空間も併せ持つ文化財的価値が高い建物です。

また、明治11年(1878年)には明治天皇の北陸東海巡行の際に行在所となるなど、歴史的意義も所持しています。

所有者が処分の意向を示したため、市民が中心となった保存運動が行われ、平成24年に掛川市が松ヶ岡を購入しました。現在は市民が中心となって、日々の清掃活動や保護・保存方法の検討を進めています。

建物の傷みは進んでおり、保存修理は喫緊の課題です。しかし、文化財建造物の修理には多額の費用がかかり、その捻出には市でも頭を痛めています。

そのような状況の中でも頑張って「松ヶ岡を何とかしたい」と日々奮闘している市民ボランティアの方々に報いるためにも、ご協力をお願いいたします。

 

掛川市の財産!「松ヶ岡」の魅力

「松ヶ岡」は静岡県掛川市南西郷(みなみさいごう)にある江戸時代末期の邸宅です。掛川藩御用達の豪商、山﨑家の住宅として安政3年(1856年)建築されました。

 

江戸時代末期の良質な屋敷構えを残しているだけでなく、明治以降に増築された奥座敷棟によって近代和風建築の格調高い空間を併せ持っている松ヶ岡は文化財的価値が高い建物です。

惜しみなく使われた高級木材や駆使された優れた建築技術から、山﨑家の財力の大きさが伺えます。

江戸末期「安政の地震」後に建てられているため、建物の構造が非常に複雑でしっかりしており、今で言う耐震補強がなされていたことが伺えます。

明治11年(1878年)には明治天皇の北陸東海巡行の帰路における行在所(天皇の旅行の際に設けられる仮の御所)にもなりました。

多くの灯篭、沓脱の鞍馬石が残るほか、かつて屋敷の周囲にめぐらされ、水運に利用されたと考えられる堀は一部が庭に取り込まれて、池になっています。

庭には松ヶ岡の名の由来となったアカマツの大木をはじめ、モミジやサツキ、ツツジ、サルスベリなどが植栽され、四季折々の姿を楽しめます。絶滅危惧種の和ラン「キンラン」も見つかっています。

貴重な文化財として、平成28年2月に掛川市の指定文化財となりました。

 

山﨑覚次郎博士とは?

「松ヶ岡」生まれの大経済学者・山﨑覚次郎博士

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山﨑覚次郎博士は明治元年(1868年)、松ヶ岡に生まれました。父親である山﨑家7代目万右衛門(徳次郎)が早くに隠居し、家督を弟の千三郎に譲ったため、長男の覚次郎が山﨑家を継ぐことなく学業に専念することになりました。

全寮制の私塾「冀北(きほく)学舎」(静岡県立掛川西高等学校の前身)を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部政治学科で政治学、同大学院で経済学を専攻しました。

大学時代は坪内逍遥の家にいとこ(母同士が姉妹)の丘浅次郎(ダーウィンを初めて日本語訳した生物学者)とともに下宿し、のちに評論家として有名になる長谷川如是閑とも起居を共にしていました。
 
大学院修了後はドイツで丘浅次郎とともに私費留学、ハレ・ベルリン・ライプツィヒの3大学に学びました。帰国後は帝国大学工科大学、東京高等商業学校(現在の一橋大学)、東京帝国大学などで教鞭を執りました。

その後、経済学の重要性が高まり、大正8年(1919年)、東京帝国大学に経済学部が設置されると、覚次郎博士は貨幣論、銀行論の担当教授として、貨幣の価値や貨幣制度について講義、大正9年~12年の期間は第2代経済学部長、大正15年~昭和5年には、昭和天皇の御用係を務めました。定年退職後は日本銀行の政策に深く関わり、昭和18年には金融学会初代理事会長に就任しました。

日本の経済が近代化に向けて動き出していた時代に、覚次郎博士が銀行や貨幣の役割と金融の基本的な理論を紹介し、この研究の基礎を築いた業績は大変大きなものでした。

博士は昭和20年(1945年)6月28日、78歳で亡くなりましたが、その著作は学生や他の研究者たちの教科書、参考書になりました。

覚次郎博士はどんなことを考えた人なのか?

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覚次郎博士は当時の日本における貨幣論の大家でした。
どのようなことを考えた人なのでしょうか?

彼の書いた教科書『経済原論』ではお金の価値の根源を効用
(消費者が自分の消費する財から受ける満足の度合い(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典』))に求めているといいます。

お金の価値があるのは貴重な金や銀と交換できるからなのか?それともお金を使って買い物できるからなのか?覚次郎博士は日本の経済学史でも早い時期から、ふたつの考えのうち「買い物ができること」の方にお金の価値を見出し、それに基づいて研究や提言を行ってきました。

紙でできた紙幣も銀行に持っていけば金貨や銀貨と交換してもらえる制度(「兌換(だかん)紙幣」)があったころからこうした主張が日本に紹介され、考えが発展していったのは覚次郎博士の力が大きかったということができます。現在では当たり前となった「管理通貨制度」が根付く基礎を整えるのに博士が貢献したわけです。

※参考文献:上久保敏『日本の経済学を築いた五十人 ノン・マルクス経済学者の足跡』(日本評論社刊・2003年)

 

松ヶ岡プロジェクト

平成21~22年頃に元々の所有者が松ヶ岡を処分する意向を示しました。しかし、市民から取り壊しを惜しむ声が上がり、平成24年12月に市が購入することになりました。翌年4月には市民による「松ヶ岡保存活用検討委員会」が組織され、松ヶ岡の修復・復元に向けて検討を進め、平成26年度に最終報告書を提出しました。

方針の実施に当たって「松ヶ岡プロジェクト推進委員会」に移行、発展し、まずは松ヶ岡の修復と掛川銀行の復元へ向けた募金活動を開始しました。

松ヶ岡という素晴らしい財産を残し、子どもたちに伝えていくため、皆様のご支援をお願いします。

 

寄附金の使い道

松ヶ岡の修復をします

松ヶ岡は状態が良好とはいえ、ところどころ傷みが進んでいて、放っておけば傷んだところから壊れてしまいます。

・屋根瓦が劣化し、瓦のズレも多く、雨漏りが発生。雨水で木材が腐食しはじめています。現在は屋根にシートを敷いて応急処置をしていますが、腐食した木材の修繕が必要です。
・蔵の漆喰がはがれて、下地の壁が露出している場所もあります。対策をしないと土壁なので雨のたびに削れて、壁自体が崩落する恐れもあります。

市民の声で保存が決まった松ヶ岡。保存・活用・運営も市民の手、市民の力が頼りです。みなさんのご協力を得て「金融のゆりかご」ともいえる松ヶ岡を修復し、後世に永く保存していきます。

山﨑覚次郎 所縁の「掛川銀行」も復元

明治13年(1880年)、山﨑覚次郎の叔父、山﨑千三郎が中心となって掛川銀行が設立され、千三郎が初代頭取となりました。

当時の掛川では、茶をはじめとする地域産業からの資金需要に応じるため、地域で官金を取り扱うため、外国為替などの取引に対応するために銀行が必要でした。

覚次郎も千三郎が亡くなった直後、一時期掛川銀行の取締役を務めました。覚次郎が金融・貨幣制度の研究者として大成する一因にはこの時の経験があったようです。

掛川銀行の復元について、外観は古写真をもとに当時の姿を再現しますが、内部は現代の様式・構造とし、研修施設・資料館として活用する予定です。

 

寄附者の方へメッセージ

松ヶ岡の保存修理に4億円、掛川銀行の復元に2億円が必要になります。一般寄附以外にも、ふるさと納税を通じての寄附をお願いしております。

寄附金の集まり具合によりますが、資金が集まり次第、修理工事の基本設計、次いで実施設計に入り、それをもとに修復工事に着手する予定です。

現在は一般公開を月1回行っていますが、修復完了後は管理運営体制を整え、常時開放の体制を取っていく予定にしております。

お礼の品一覧

現在進捗情報はありません。

静岡県掛川市

掛川市は静岡県西部の東端に位置し、日本のほぼ中心に位置しています。かつては遠江国と呼ばれた地域であり、戦国時代には市内に所在する3つのお城、高天神城、横須賀城、掛川城は歴史の重要な舞台となり、戦国ロマンの香りが漂うまちです。また江戸時代の終わりには、二宮尊徳の教えを伝える大日本報徳社が設立され、その報徳の教えは現在の市民の多くにも受けいられていて、生涯学習都市、協働のまちづくりを進める基礎となっています。また、大日本報徳社は、日本最古の信用金庫である掛川信用金庫を設立しています。