【じぇじぇじぇ!】岩手県久慈市ってどんなとこ?

この度は久慈市ふるさと納税のページをご覧いただき誠にありがとうございます。 久慈市は、北上山系の北東部に位置し、陸中海岸国立公園と久慈平庭県立自然公園に囲まれた、海の幸、山の幸に恵まれた風向明媚なまちです。 西側の山形地区は、面積の95%が山林という豊かな自然に囲まれた農山村です。 中心市街地は太平洋に面し、175万キロリットルを備蓄する久慈国家石油備蓄基地を備えています。 山形地区は、ヤマセ(冷たく湿った北東風)による冷涼な気候を利用して栽培する雨よけほうれん草と放牧による健康で安全な日本短角牛が高い評価を得ています。 また、豊かな山林を利用した木炭とシイタケ生産は県内でも有数な産地となっています。 一方、寒流と暖流が交錯する久慈近海一帯は古くから好漁場として知られ、水産資源に恵まれていることから、定置網や漁船での捕獲、アワビ、ウニ、ホヤなどの磯漁が盛んに行われています。

まずは久慈市の良いとこ!を動画でご紹介!

【日本一の白樺林:平庭高原】

平庭高原の白樺林は、約300ヘクタールにも及ぶ広い範囲に30万本以上の白樺が林立しています。
国道281号線の両側約4kmにわたって白樺林が続き、白樺と青空のコントラストがとても鮮やかです。
四季折々の風景が、あなたを癒してくれます。

久慈市山形町の郷土料理「久慈まめぶ汁」

資源を活かして様々な体験ができます!

【ド迫力!東北唯一の闘牛大会】

岩手県久慈市の平庭高原で毎年開催されている闘牛大会は、東北地方で唯一開催されており、その歴史は塩の道の時代まで遡り、山形町の観光行事の一つとして定着しています。
また、本市は全国でも有数の日本短角牛の産地であり、その短角牛が闘牛の素牛として全国へ供給されており、闘牛の本場新潟県や沖縄県、鹿児島県の徳之島等で「南部牛」として名牛となって活躍しています。

■牛突き(闘牛、牛の角突き)の歴史
久慈市山形町の闘牛の起源は、文献では明らかにされていないため不明ですが、本市は古くから日本短角種の産地であり、昔は主に農耕用や荷物を運ぶ役牛として飼養されていました。
江戸時代に近隣の海岸で焚かれた塩を、牛の背に乗せ北上山地を超えて盛岡方面まで運んでいました。(この道を塩の道と呼んでいます。)
その際、先頭に立つ牛を決めるため牛の突きあわせをしたのが闘牛のはじまりとされています。
また、これを観光行事として本市に取り入れたのは昭和58年からとなります。

■活動と今後の取り組み
現在は春・夏・秋の年3回開催しています。(春は6月上旬の平庭高原つつじまつりに開催、夏はお盆の時期に開催、秋は紅葉の時期に開催)
また、本市で育てられた牛が、新潟県や沖縄県に買い取られ活躍されており、闘牛の育成の産地としても役割を担っています。
今後も市の産業の柱である、日本短角種の振興と併せ観光行事の目玉の一つとして取り組んでいきたいと考えています。

樹脂の化石!?太古のロマン【琥珀(こはく)】

世界最古の琥珀は、約3億年前のもので、イギリスのノーサンバーランドや、シベリアで発見されています。
琥珀とは、数千万年~数億年前、地上に繁茂していた樹木の樹脂が土砂などに埋もれ化石化したもので、いわば「樹脂の化石」。
久慈の琥珀は、約8,500万年前のもので、南洋スギ(学名アラウカリア)が起源樹種と考えられており、商業価値として用いられている最も古いものなのです。
宝石といえば、真珠、珊瑚、べっ甲など、一部が動物に属するほかはほとんどが鉱物で、琥珀のように植物に属するものは極めて珍しいもの。
そのため、生成の過程で古代の昆虫、葉、花、樹の皮などが自然に入りこんだ石もあり、これは、大変希少性を持ち、学術的にも価値があります。
色も、黄、茶、赤、白、青、緑、黒など極めて多彩で約250色あると言われています。
琥珀のもとになった樹木ですが、“樹脂”というと、“松ヤニ”を連想します。
しかし、実際に琥珀のもとになった樹木は広葉樹から針葉樹までさまざまです。
時代によっても、もとになった樹木の種類は異なり、現生の樹種もあれば、絶滅した樹種もあります。
また、産地によって琥珀の色には多少の特徴が見られます。

【伝統の漁法を伝える:北限の海女】

総延長180㎞にも及ぶ陸中海岸。「北限の海女」は、その北部、久慈市の小袖海岸で活躍する海女たちの総称です。
沖合は世界三大漁場の一つに数えられる漁場であり、サケをはじめ、マグロ、カツオ、サンマ、サバ、イカなどが多数水揚げされています。
さらに、良質な海藻が育つ磯は、ウニ、アワビなど高級食材の宝庫になっていて、海女たちの格好の漁場になっています。
伝統の漁法を今に伝える「北限の海女」は、今また全国から注目を集めています。

■海女の誕生
海女のはじまりは明治初頭といわれています。
遠洋漁業が発展する中で、男たちが何日も家を空けるようになると、女性たちも畑仕事の合間に海に出てアワビやワカメ、コンブを採り、換金するようになりました。
子供たちも一緒に採るようになり、自然と潜水の技術を身につけて海女になっていきました。
当時は「海女」の名はまだなく、「かつぎ」と呼ばれていました。

■北限の海女の名付け親
久慈市の海女が有名になったのは昭和34年(1959)に放送のラジオドラマ「北限の海女」がきっかけでした。
脚本家の故水木洋子さんは、「ひめゆりの塔」、「裸の大将」、「浮雲」など、数々の名作を生み出した方で、都会の女性と小袖の海女の出会いと生き方を描いたもので、当時の生活や地域の様子が描かれていました。

■ひと息でウニ10個も!
素潜りの海女にとって、やっかいなのが海水温。三陸の海は冷たく、漁が終わる頃には体が冷え切ってしまいます。
それだけに、素早い潜水が重要で、上手な人はひとかきで2mあまりも進み、獲物の多い10m以上の好ポイントまで一気に潜水します。
そして10個ほどのウニを採りヤツカリに入れて浮上してきます。
ただ、藻がからみつき身動きがとれなくなったり、ヤツカリが岩場に引っかかったりと危険も背中合わせの漁なのです。

【豪華絢爛な山車】岩手県北地方最大のお祭り「久慈秋まつり」

【600年以上の歴史がある岩手県北最大のまつり:久慈秋まつり】
道幅いっぱいの大きな山車と活気あふれる神輿が、久慈市内の目抜き通りを通ります。
その華やかさは岩手県北一を誇り、毎年多くの観光客が訪れる恒例のまつりとなっています。
初日(お通り)と3日目(お還り)は山車と神輿の合同運行、2日目(中日)は郷土芸能大パレードとなっており、3日間存分に楽しめる内容となっています。
まつり好きなら前夜祭もおすすめ。
一同に揃った山車組の運行者が次々と放つ音頭は、山車運行者も一番熱くなる瞬間です。